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2010.10.28 (Thu)

バイオエタノール

久々に専門ストライクのエントリーを書いて見ます。
書くきっかけになったニュースはこちら。


稲わらを原料としたバイオエタノール 川崎重工が製造に成功


川崎重工業は6日、同社の熱水式バイオエタノール製造技術を活用、稲わらを原料とした自動車燃料として使用可能なバイオエタノールの製造に成功したと発表した。
同社は昨年11月に、秋田県潟上市に日産200リットルの生産能力を持つ製造実証プラントを設計・建設し、バイオエタノールを製造している。
同社は、このプラントで2012年度まで製造コストの低減を目指した実証試験を継続する。商用化に向けて1リットルあたり40円以下の製造コストを目指す。



このニュース自体に突っ込むところはないのですがYahoo!ニュースのコメントいくつか気になるものがありました。

このような技術開発は国費で対応するべきです。1兆円ほども投入して優秀な研究機関や企業には100億円単位のお金を授与する方法がいいと思います。ノーベル賞学者も言っていましたが、人材だけが財産の国です。お金は惜しみなく研究につぎ込んでほしい。その原資は公務員の半減と公務員給料の半減!都合1/4にすれば簡単に出ます。公務員は本当に半分で十二分なのです。当人にとってはたいへんですが、犠牲を出さなければ進歩はありません。思い切ってください。そして諦めてください。


たぶんこの人は最終的に公務員批判がしたいだけなんだろうなぁ~と思いつつつっこみたい。

まず「このような技術開発は国費で対応すべきです」っていきなりあるけどなぜこの結論に至ったんでしょうか。
普通逆の発想で「国が関わる産業は必ず廃れるから市場にまかせるべき」ってのが一般的だと思うんですけどね。
参考例:官僚たちの夏
実際私は国のプロジェクトに関わってるけれど無駄だらけで「研究を仕事にするために研究してる研究者が群がっている」という感覚はぬぐいきれません。
民間出身の上司は「産業をする感覚がまるでない」といつもプロジェクトに対して愚痴をこぼしています。
こういう産業に直接関わるような技術開発は断然民間に任せるべきです。


また「お金は惜しみなく研究につぎ込んでほしい」とありますがこの発想も単純すぎます。
確かに研究にお金は必要であり、アメリカの予算と比べると1桁も2桁も違うのが実情です。
しかしそれはある種アメリカの国策である「世界中から天才達を集めた結果」であるわけで今の日本のシステムのまま研究費を増やしても「研究で食べていきたいだけの研究者」が増えるだけでしょう。
実際に上記のようになっているわけでただお金をつぎ込めばよいというわけでなく「システム」そのものにメスを入れる必要があります。
むしろ研究費が今のままいたずらに増えれば例のごとく「利権」にむさぼる人間達が現れても不思議ではありません。


日本の技術ってやっぱすごいなぁ


このコメントも残念ながらまったく的外れなものです。
日本のバイオエタノール技術はむしろ圧倒的に遅れています。
一番利用しているのが私の認識ではブラジルですがとっくの昔に100%エタノールの燃料で走る車があるはずです。
アメリカでも今はむしろ廃れていますがどんどんベンチャーが出来ていました。
なぜかというとそれは「バイオエタノールを作ること自体は簡単だから」です。
バイオエタノールっていうとなんだか凄いものに聞こえますがお酒もエタノールであり基本的な技術は同じです。
何が難しいかというと「値段を下げる」のが難しいのであって技術そのものはまったくたいしたことはありません。
なので実際に低コストでバイオエタノールを実現させた場合のみ「日本の技術はすごい」ということになります。
しかし、残念ながら現在でも「40円/リッター」を「目指している段階」なのでまだ凄いとは言えないのが現実であります。


この燃料こそが誰もが今すぐ実現できるエコですね。。。


このコメントも残念ながら現状ではそういいきれません。
バイオエタノールは植物から作るためそれを燃やしてもまた植物に変換される「炭素循環」が取り上げられますが大きな誤解といえます。
なぜならバイオエタノール作成時には当然電力を使うからです。
そして、その電力は地域によるかもしれませんが化石燃料由来である可能性は高いでしょう。
そして象徴的な出来事としてこのような出来事も起きました。
ある学会でバイオエタノールの日本の権威のような人が

「太陽光などのほかの新エネルギー技術が発達してきている今、バイオエタノールの開発にどれほど意味があるのか!」

と厳しく指摘をされてマゴマゴとしか返せない現状があります。
つまりやってる本人も本気で「環境のため」とか考えていないわけです。
これを責めるつもりはまったくなくて、現状では「環境のため」といわなければ「予算がとれない」ことそのものが問題だと思います。



このように「バイオエタノール」に関する誤解は大きいもののように感じます。
残念ながらエコでも日本の技術が凄いわけでも金を費やせばより良くなるわけでもないとは思います。
といってもこの研究そのものに意味がないとはまったく思いません。
新エネルギーが多く開発されるものの「エネルギー資源の選択肢」を持つことは非常に大事なことだと思います。
このまま研究を続ければかならず石油と値段的にバランスがとれる時代は来るでしょうからその時にこそ意味があるのでしょう。
またバイオエタノールの肝である「糖変換技術」もこれから役に立つ時代がくるのではないでしょうか。
そういうことを願わないと研究する意味がありませんからね。
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21:55  |  研究  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.23 (Sat)

自分のことをちゃあんとする

twitterで知った「小学2年生の作文に泣かされたよ」というエントリーに感激したので紹介します。


小学2年生の作文に泣かされたよ


この作文は第47回全国小・中学校作文コンクールの優秀賞受賞作品ということですが本当にすごいですね。
タイトルは泣かされたとなっていますが私はこの精神性の高さというか小学2年生ですごい域まで来てるなと驚きました。
たぶん私がこの域に達したのは高校か大学だろうか、情けない。


この作文でどこに驚きまた共感できたかというのはやはりここです。

人は、みんな、心をくっつけ合って、生きていくのです。でも、くっつけすぎには気をつけて、みんな元気な時ははなれて、じぶんのことをちゃあんとするのがいいと思います。

この考えにまったく同感ですが、それができるのは今の自分だからです。
小学校でこんなこと言われてもポカンとしかできないでしょう。
たまたまこの作文の題材である「セロ弾きのゴーシュ」に近い体験を母親としているからでてきた感覚だと思いますがそれを踏まえてもやはりすごいです。


私にとって「くっつけすぎには気おつけて」という部分は「迷惑をかけないって意識しすぎない」という考えと一致します。
日本では親の教育方針としてよく「人様に迷惑をかけない」という言葉をよく耳にしますが私はまったく共感できないのです。
というのも「迷惑をかけない」という言葉が「迷惑をかけられたくない」という言葉に変換されてしまいすごく嫌な気持ちになります。
「他人に気を使う」も「自分に気を使え」と言っているようにしか聞こえないのです。
もちろん「自分にはどんなことをされても気にしないがそれでも他人には気遣い迷惑をかけない」なんて高尚な考え方の人もいるかもしれませんが普通はそうではないでしょう。
なので私はいつの頃から迷惑をかけないなんて考え方は捨てて、その分他人を受け入れる窓口が広くなったように思います。
考え方の違いはしょうがないものなので直接ぶつからない限り気にする必要はないのです。
そのかわり直接ぶつかった時は正面からしっかりぶつかればよいと思います。


それにしても読み返せば読み返すほど深いですね。
下記のように文章のつながりがしっかりある辺りが本当に上手です。

今考えると、わたしの「がんばるぞ」は、本当の「がんばるぞ」ではなかったと思います。「つらいのがんばってがまんするぞ」の「がんばるぞ」だったのです。

と言っておいて本当の意味においての「がんばるを理解した後に次の言葉で締めます。

わたしは、がんばって大きくなります。

リンク先の感想でもありますがまさに「完璧」です。



すごいと思うと同時に本当に人の良さがにじみ出ている作文です。

そんなにかんたんに「いいよ」なんて言われると、わたしはびっくりするタイプです。

なんとも可愛らしい。
このまままっすぐに成長してもらいたいです。



正直に言えば私自身を振り返って作者が言うところの「ちゃあんとしている」とは到底思えません。
まさか小学2年生から学ぶことになるとは思いませんでしたが年齢なんて関係ないですよね。
私も自分のことをちゃあんとしてがんばって大きくなりたいと思います。

12:19  |  自己啓発  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.17 (Sun)

「個人」として「世間」のなかに生きるのは可能なのか?

今回は本の紹介です。
久しぶりの大ヒットなので是非読んでいただきたいと思います!

「空気」と「世間」 / 鴻上尚史





いつからでしょうか、ここ数年「空気」という言葉をよく耳にするようになりました。
一番典型的な使い方が「空気を読め」という言葉でしょうか。
そういえば「KY(空気が読めない)」という使い方はあまりしなくなりましたね。
それはともかくその「空気」とは何なのかを「世間」という言葉と関連付けて説明した本であります。


空気の説明をするために本書ではまず世間について掘り下げています。
この世間については阿部謹也という方が研究されていたようでその研究を引用しながら以下のように定義しています。

世間のルール1:贈与・互酬の関係
世間のルール2:長幼の序
世間のルール3:共通の時間意識
世間のルール4:差別的で排他的
世間のルール5:神秘性

このように定義した世間に対して空気は「世間が流動化したものが空気」と定義します。
流動化というとわかりにくいですが要は上のルールのうちいくつかを含んだ条件下になったときに「空気」が生まれると判断します。


このような流れで話が進むのですが私にとって非常にためになったのは「世間と社会」の対比です。
世間が上記のようなものだとすると社会の一番良い例が欧米のスタイルです。
世間に生きる日本人は常に上記のようなルールに支配されているため「個人」という存在がありませんが欧米では逆に「個人」が先立って存在します。
この「個人」が生まれる理由は自分の存在を「神」との対比により確認することから来るらしいのですがそこもとりあえず割愛します。
とにかくこの「個人が生きる社会」と「個人がない世間」という対比が私自身がここ数年で抱いていた違和感をはっきりと解決してくれたのです。


その違和感をシンプルに表現すると「自分はちょっと変わってるんだな」ということです。
こういう考えをここ数年で急に持つようになりました。
ここ数年というはつまり社会人になって会社で働くことになったことがきっかけだと思います。
学生時代までは「自分が変わっている」なんてことは思ったこともありません。
むしろ「一番標準的な考え方をする」という自負すらありました。
しかし、周りからは「変わってる」と言われていたのでそれが納得できませんでした。
その腑に落ちない感覚がこの本を読んですっと解消されたのです。
私に対する違和感の原因、それは私が「世間」ではなく「社会」で生きていたということでした。


上記したように社会では「個人」が重要になります。
世間では上記のルールが重要になります。
そして私自身がどちらを重んじて生きていたかと振り返ると確実に「個人」だと言い切れるのです。
まず贈与の互酬の関係という贈り物はお返しが前提になっているという考え方が一切考えられませんでした。
贈り物はプレゼントとして「渡したいから渡すもの」であり「習慣だから渡すもの」ではありません。

また長幼の序に関しても例えば部活・サークルで先輩だから敬うということはまったくありませんでした。
能力があれば年上だろうと年下だろうと尊敬しますが「先輩が絶対」という考え方には賛同できません。
なので高校でも2年生のときに顧問の先生に「先輩より自分の方がうまいんだから自分をつかうべきだ」と主張したり、サークルでも不要だと思える伝統は全て一新しました。

共通の時間意識というのはわかりにくいですが本書では「お互いに同じ時間を生きていると思うこと」だそうです。
その例として「親子心中で子供が助かったときに子供が残されたと表現するのは親子は共に同じ時間を生きるべき」という考え方や「長時間のダラダラ残業は同じ時間を生きているということを確認するため」とあります。
こういう考え方も私の場合はまったく理解できず、基本的にマイペースに自分の時間を使うタイプです。
それは自分勝手という意味ではなくお互いに今やりたいことを調整しあってその時のベストな配分で時間を使っていくべきだという考え方です。

差別的で排除的というのも私の信念である「多様性」、つまり違うことは当たり前だという考え方に大きく反するものです。
世間では「村八分」という古い言葉に代表されるようにルールに反するものを徹底的に排除します。
しかし、「個人」で生きる私には違う個人が違う生き方をするのは当然であり個人間の衝突があればそのつど調整をすればよいと考えています。

最後の神秘性も「しきたり」「伝統」「迷信」という例がありますがやはり相容れない考え方です。
論理的に説明できない事象をいつまでも大切にする理由は私にはわかりません。
というよりある人がその論理的に説明できない何かを大切にするのはまったく構わないし批判の対象にもならないのですがそれを他人に押し付ける気持ちがまったくわからないのです。
もちろん当人にとって押し付ける相手は「同じ世間で生きている人」なので他人ではないのでしょうけど。

このように「社会」で生きる「個人」が「世間」で生きる人の中に入れば当然「変な人」になるんだろうなとしっくりきたのです。


そしてそれは今の職場の部下に当たる子との違和感にも説明がつきました。
その子とは基本的に生きている世界が違うなという感覚をもっていたのですがまさに「社会」と「世間」の違いなのだとわかりました。
日本でも世間は弱まってきましたが田舎ではまだ根強いとあるとおり、やはりその子は田舎育ちで私には考え方がそこで固定されているように思います。
その子の特徴は「世間」で全て説明がつくので「社会」で生きる私と考え方が違うのは当たり前だったのです。
それをなんとかすり合わせられないかと試行錯誤しているのですがその方法の道筋がなんとなく見えたような気がします。
っと言っても具体的にはまだ何もないのですが「病気の原因がわかってホッとする」ような感覚とでも言えばいいでしょうか。


ここまで「個人」を強調して書きましたが私のなかに典型的な日本人としての部分も多く存在します。
その場の空気を読んで「その場で適切と思われる発言」をすることも多くあることは事実です。
それは苦痛ではあるもの、その場に適した「目的」を達成するためには必要な措置だと考えています。
そして、この本を読んで「個人」として生きながらなおかつ「空気」も読む自分の存在に理由がつけられた気がします。
それはこの「中途半端に世間が壊れた日本」で生きていく「最適解」だったのではというものです。
本書で出てくるアメリカの行き過ぎた「個人」の社会にも日本の「世間」の社会にも問題はあります。
だからその両者のバランスをとりながらなるべく「窮屈でない生き方」が私の生き方だったのかなと思っています。

これからは益々日本の「世間」が壊れていくことになるでしょう(本書では反対に一部はより強固な世間を構築する可能性があるとしていますが)。
もう少し生きやすい「社会」になっていくのかなとちょっと期待しています。
21:46  |   |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.14 (Thu)

明日を信じられる社会

今日はこのエントリーを取り上げます。


JALの“白紙スケジュール”で勢いづく解雇解禁論の不気味


この手のエントリーは非常に多いと思います。
どういう種類かというと「人間の気持ちが大事なんだからそれに反する行為はしてはいけない」と主張しながら問題の解決策は示さないというものです。
筆者はこう主張します。


気持ちを無視する会社にも社会にも、未来はない


ではすでに無視されている非正規社員にはどう対応するのでしょうか。
この著者は完全に「正社員」のみで構成されていてその正社員という制度を支えるための様々なひずみは完全に無視しています。
無視した上で「感情が大事だ」なんて白々しいにもほどがあります。
大事なのは「感情」ではなく「現実」です。
雇うことができなくなった会社に対してそれでも「雇え」と主張する感情というのはいったいどういうものなのでしょうか。
その感情はただの「自己陶酔・自己満足」にしかうつりません。


また以下のようにも主張しています。


組織を動かすのも、社会も動かすのも、人である。ちっぽけな、ちっぽけな人だ。組織力を高めようとするならば、そこにいる人が強くなれる環境を作る必要があるし、強い社会を作るためには、そこで暮らす人が明日を信じられる社会にしなくてはならない。


「そこにいる人がつよくなれる環境」というのはどういう環境なんのでしょうか。
もしそれが「明日を信じられる社会」ならとんだ勘違いでしょう。
何をやっても首にならない会社・社会なら努力をするインセンティブは大幅に減少します。
人はちっぽけであることには同意しますが、ちっぽけだからこそ緩い環境では当然気持ちも緩みます。
そしてそこには「人が強くなれる環境」なんてものはありません。
職業柄色々な会社の現場からの情報が入りますが研究・開発という現場ですら守られた緩い環境だと使えない人材であふれています。
そんな人材を守るために新たに社会に出る若者からチャンスを奪う社会が「明日を信じられる社会」だとは理解できません。


著者のプロフィールを見ると保健学博士ということでこの手の専門家でもありません。
さらにANAでCAをしていたようですが絶好調な会社しか知らないのでしょう。
一度派遣社員として企業で働けば嫌でも腹が立つはずです。
まったく使えない社員や中には上司が自分の何倍もの給料をもらっているにも関わらず守られた環境でぬくぬくしている姿を見れば気持ちも変わるでしょう。
「人の気持ちが大事」なんて誰でも知っていることです。
でもそれはあくまで友人や恋人・家族など自分の周りに対して大事にするものです。
いつもこのブログで主張していますが目の前の1人を救う方法と100万人を救う方法は絶対に違います。
私にとって明日を信じられる社会とは「競い合う社会」です。
競い合うことすらさせてもらえない社会では明日を信じることはできないでしょう。

21:26  |  社会・政治  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.10 (Sun)

社会が生み出す悪人

映画「悪人」を見てきました。


ストーリー
若い女性保険外交員の殺人事件。ある金持ちの大学生に疑いがかけられるが、捜査を進めるうちに土木作業員、清水祐一(妻夫木聡)が真犯人として浮上してくる。しかし、祐一はたまたま出会った光代(深津絵里)を車に乗せ、警察の目から逃れるように転々とする。そして、次第に二人は強く惹(ひ)かれ合うようになり……。


Yahoo!映画より


モントリオール世界映画祭で、ヒロインの深津絵里が最優秀女優賞を受賞したということで映画ファンとして見逃せないと思い見てきました。
上のストーリだけを読んでもまったく明るい映画でないことがわかりますが始終暗いタッチで救いはまったくありません。
それは予想していましたが予想以上に考えられる作品でした。
なるべくネタばれしないように書きますが若干のネタばれをご了承ください。



この映画では清水(妻夫木)が女性を殺してしまい、そんな清水を光代(深津)は愛してしまいます。
愛した人が実は殺人者であり、しかも一緒にいることで同じ寂しさを抱えた同士ということで2人はどんどん引き合っていきます。
何より女性を殺すことになった理由があまりに悲惨な情況というか、思わず清水に同情してしまうのです。
もちろん殺人は絶対に許されることではありません。
しかし、この映画では殺人という罪を犯した清水以上に社会的に見逃されている「悪人」が多くでてきます。
その周りの人間達はたまたま法律を犯していない(または一部明らかに犯していますが捕まっていない)だけで悪人であることには代わりありません。
ただし実際に罪を犯して捕まった清水だけが社会的に悪人として裁かれることになるため、非常に理不尽な思いでいっぱいになりました。


この映画では「閉塞感」ということが1つのテーマだと思います。
母親の愛を知らず地方の狭い社会で生きる清水は人の何倍も「つながり」を欲していました。
光代小学校から職場まで1つの国道沿いですんでしまう非常に小さな世界で人との「つながり」を欲していた。
そんな2人が「出会い系サイト」で出会ったこと自体は必然だったのかもしれません。
出会い系サイトに良いイメージを持つ人はほとんどいないと思いますがこの2人がネットに出会いを求めることを責める気にはなれません。
そのくらいの閉塞感がこの2人には漂っていました。
その閉塞感がより2人がやっと手に入れたつながりを何倍も強い絆としたために逃避行に走ってしまうのです。


殺人という犯罪はどのような情況でも絶対に許されることではないと今でも思います。
ですから当然清水は法によって裁かれるべきだと思います。
しかし、それでも清水が裁かれることに対する違和感を最後までぬぐえないのです。
日本では昔から「罪を憎んで人を憎まず」といいますがその考え方をはっきり理解できました。
つまり清水という殺人犯を生んだのは社会であり、裁かれるべきは社会の方だと思うのです。
ただしこの「社会を裁く」というのは自分で言っていても非常に感覚的でありよく正直どうしたいのかよくわかりません。
だけどこの問題はどうしたらよいかわからないというまま放置しておくにはあまりに重要な問題だと思います。
なぜなら現代社会に生まれた人間にとってつながりとは誰もが求めるものではないでしょうか。


今回この映画を読んで最近読んだ3つの本を思い出したので話にからめて広げようと思いましたが私の能力不足で無理でした。
とにかくまだ問題が自分の中で漠然としすぎて捉えきれていないようです。


  



「死刑」に関することや「正義」に関することはやはり一筋縄ではいかないように思います。
この映画を1つの題材としてこれからもっと深く考えて行きたいと思います。
21:18  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.09 (Sat)

地域社会とは

次のニュースを読んで非常に驚きました。


大型店出店の規制強化検討=地域社会の秩序に支障-経産相


大畠章宏経済産業相は7日午前、大規模小売店の出店で地域の商店街が衰退している問題に関して「さらなる大型店の展開によって地域社会の秩序に支障が生じる」との認識を示した。その上で「規制を強化することが必要だ」と述べ、大規模小売店の出店規制強化を検討する考えを明らかにした。
経産相は懇談会の冒頭あいさつで「ひともうけしてやろうという乱暴な波に(商店街が)のみ込まれる感じがある。このまま放置すると地域社会が崩壊してしまう」と危機感を強調。「新しい地域社会づくりに再スタートする決意で進まなければならない」と訴えた。



大規模小売店の出店規制強化なんて社会主義以外のなにものでもないじゃないですか。
国が市場に関わりすぎるとろくな事がないと思いますがこれは本当にひどいですね。


確かに地域の商店街が衰退していることは事実だと思います。
私の故郷である岐阜も商店街はシャッター街になっているところも見受けられます。
しかし、それは誰もが知っていることですが「魅力がない」からです。
どう考えても買いたいと思えるようなものがなかったり交通の便が悪かったりと消費者に対してアピールする部分が何もありません。
さらにこういう状態にも関わらず営業努力する姿勢がまったく感じられないのです。
これでは衰退するなという方が無理でしょう。


そもそも「地域社会の秩序」って何でしょうか。
すごく曖昧な言葉でこういう言葉を使う人はずるいような気がします。
ここでいう秩序は完全に「商店街」の人だけを指しており、地域社会全体で考えたらより魅力ある大規模小売店の存在はとても良いことです。
そういう意味で考えれば魅力のない商店街がなくなり魅力のある大規模小売店が伸びるのは「秩序ある社会」のような気がします。
逆に国の規制で大規模小売店を押さえ込むこむことで魅力のない商店街がいつまでも続けられるのは「秩序ある社会」とは思えません。


さらにこの発言、「ひともうけしてやろう」というところにとても悪意を感じます。
儲けることを考えないで誰がリスクをとって新しく商売をするというのでしょうか。
むしろ商店街の人々が「もうけるきがなく」商売をしているならそっちの方が問題です。
そのような状態だからこそ魅力のない状態がまったく改善されないまま放置されてきたのではないでしょうか。


残念ながら日本ではこのような「もうけること=悪いこと」という考え方がはびこっているように思えます。
その代表例としてかつての村上ファンド事件での一審判決で「被告の『安ければ買うし、高ければ売る』という徹底した利益至上主義に慄然とする」とコメントが出たそうですがまったく意味がわかりません。
「安く買い・高く売る」ことを否定したら商売なんてできるわけないじゃないですか。
税金で生活している裁判官にはこのことが理解できないのかもしれませんね。
そんな裁判官が経済に関わる事件も裁くわけですからいつまでたってもこのような情況が直らないわけです。


とにかく地域社会にとって本当にあるべき姿が何かを再考する必要があると思います。
09:11  |  経済  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.06 (Wed)

見えてるもの

このblogの目的の1つは「特定派遣」というちょっと変わった職業を世に広めることです。
ですが気づいたら全然特定派遣に関するエントリーを書いていませんでした…。
というのも理由があって今私のいる環境が一般的な特定派遣からするとちょっと特殊な派遣先だからです。
しかし最近新しい情報を得たので書きたいと思います。


私の今の派遣先が特殊な理由は「純粋な研究機関」であるとこと「メンバーが全員派遣社員で構成されている」ためです。
ですから「私の特殊な立場」からの意見は「仕事」のカテゴリーとしてたくさん書きましたが「特定派遣」のカテゴリーはかけませんでした。
では一般的な派遣先というとやはり「メーカー」になります。
そこで派遣先の社員と関わりながら仕事を進めるのが一般的ではないでしょうか。


新しい情報というのは「やっぱり特定派遣は実力主義だな」という話です。
現在うちの職場に新しくやってきた同じ会社からの派遣社員はけっこう色んな場所を転々としています。
転々とした理由は実力とかじゃなく完全に流れが悪かったんですが今までやってきたことは「補助」の立場が多かったみたいです。
派遣職にはありがちなので良い仕事が回ってこなかったんだなぁと単に思っていましたがそうではないようです。


というのもその人(仮にAさん)は仕事ができなくはないけれど…という程度でいまいちぱっとしません。
そこでAさんをよく知っている派遣業界の先輩に話を聞くとチャンスはあったが実力が足らなかったということでした。
どういうことかというと最初に某大手化学メーカーに派遣されたがそこではずっと補助的な仕事をしていたようです。
ですから私が「それはありがちですね」というと「いや、実力が認められた人はそのメーカー内でよりよい仕事が回ってきた」とのことだったのです。
恐らくそこで踏ん張ってより創造性の高い研究職を経験していれば次からの派遣先も違ったところを紹介してもらえたのかもしれません。


ただでさえ運の要素が多分に入る業界で1度のチャンスを逃すことは致命的です。
アピールできる場が1度でもあればそこを死ぬ気で抑えてしっかり経験させてもらって次に生かす。
この発想を常に頭に入れておかないと目の前にチャンスが転がってることすら気づかないこともあります。
チャンスは普段から準備をしていない人の前は素通りするものです。


私の職場では上記したような特殊な環境のせいでチャンスが転がりまくっています。
しかし残念ながらそのことに気づいている人はほとんどいないようです。
同じ環境にいても意識1つでまったく見えてる世界は異なるんだなと痛感しています。
このチャンスがどういう形で結実するのかは正直まだ何も見えていませんがスティーブジョブズが言うところの「ドット」をしっかりと形作っていきたいです。

22:33  |  特定派遣  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.03 (Sun)

日本の男性は皆ロリコン

本当にネタみたいな記事です。


中山政務官:「日本の女性は家庭で働くことが喜び」と発言


アジア太平洋経済協力会議(APEC)中小企業相会合の関連会議として1日に岐阜市で開かれた「女性起業家サミット」の昼食会で、経済産業省の中山義活政務官(65)が「日本の女性は家庭で働くことを喜びとしている」などと発言。
中山政務官は女性の社会参加推進を強調する一方で、日本女性が家庭で働くことを「文化だ」と発言。「日本の奥さんは力がある。デパートに行けば、初めに子どものもの、次に奥さんのもの、その次がペットのもの。4番目にご主人のものを買う」などと語った。



こういう人ってどういう神経してるんでしょう…。
女性企業家が集まる前で「女性は家庭で働くことが喜び」って思ってても普通言えないですよね。
たぶんけっこうな歳だろうなと思って調べたら65歳ということでした。
やはりこの年代のほとんどの男性の価値観は一切に時代についていっていません。
女性が家庭で働くことが「日本の文化」と言い切ったそうですがいつからそうなったんでしょうか…。


内容の全貌を知らないのでわかりませんがニュースには「女性の社会参加推進を強調する一方で」とあります。
つまり「女性の社会参加は大事だけど日本の女性は家庭で働くことが喜びであり文化である」という意見であることがわかります。
さらにこれを解釈すると「本当は家庭で働きたいけれどそれができない社会環境だから女性も働くしかない」と捉えることができます。
今回の発言自体は最悪ですが実はある側面を捉えている言葉でもあると思います。


なぜ、20代高学歴女子は「専業主婦」狙いなのか

内閣府の意識調査によると「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という質問で女性の賛成派は20代が60代についで多いという結果が出た。ちなみに、反対派が一番多いのは40代である。


このような調査事実は現実に非常に近いのではないでしょうか。
私の周りの女性から出てくる意見も多くが上記の調査と一致します。
この調査結果を私なりに解釈するとまず60代女性は古い価値観というだけではなく自己肯定という意味合いも強いと予想しています。
仕事をすることを社会から一切期待されずひたすら「家庭を守る」という価値観で生きてきたこの世代が今更「女性は働くべきだ」とは考えられないでしょう。
また40代女性は「両面からの現実を知っている世代」だと予想します。
家庭にはいった女性は「夫は家庭を帰りみずに仕事ばかりしたあげく日本経済が落ちてきて稼ぎも悪い」という現実、働いている女性は「働くことで社会的地位や経済的安定を得られる」という現実です。
さらに結婚をしずに働いている女性は60代女性と同じく自己肯定の面も考えられます。


では20代女性、特に学生の時点ですでに主婦を目指すというのはどういう心理なのでしょうか?
それは予想できなかったのですがリンク先エントリーによると「女性の価値=主婦ができる」という心理から来るようです。
そして男性正社員の給料が上がらなくなっているなかで「主婦」をできるというのは一種のステータスという考え方から来るようです。
しかし現実を見ればそんな経済状況に日本がないことは明らかなので学生がいかに社会環境から隔離されているかがよくわかります。
私が学生をしているときも事実そんな感じでしたからこの考え方もしょうがないのかもしれません。



こういったことを踏まえても「働くことに魅力を感じない」のはとても不思議です。
私自身がやたら自立心旺盛で学生時代からはやく自分で稼げるようになりたいと考えていたので上記のような考えは理解できないのです。
私は恋人を「パートナー」としてみる傾向があるのですがこれからはその考え方だとモテそうにないですね。
それでも私は働く女性こそ魅力があると感じるし1日中社会から隔離されながら家庭で家事をしている女性には魅力を感じれそうにありません。
大人になってから(つまり社会人になってから)自立していない女性に恋心を抱くというのは極端にいうとロリコンのようで男性自身も成熟していない表れでしょうか。
「日本の男は皆ロリコン」なんて言っている人もいますが50・60代の男性を見ると「バリバリ仕事ができる子供」みたいな人が多くてある意味互いに精神年齢はつりあっているのかもしれません。



今回のエントリーはだいぶ毒が多くなってしましたがこのことはずっと昔から思っていました。
ロリコンとは見た目とかじゃなく内面的なものだと思っています。
私は一応大人なつもりなので自立した女性と家庭を築くことを夢見ています。
23:33  |  社会・政治  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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